<1992年3月19日・木曜日>
長岡→(普通)→戸狩野沢温泉→(普通)→長野→(普通)→松本→(普通)→中津川→(快速)→千種
長岡のホテルを7時前にチェックアウト。7時20分過ぎの飯山線普通、戸狩野沢温泉行きに乗車するために早めに出発した。
今回の旅で使用している「福島・会津磐梯ミニ周遊券」は帰りのルートには飯山線経由は指定されていない。
信越線経由か上越線経由しかルートに入っていない。僕は去年の9月の信州ワイド周遊券の旅で飯山線を横倉という中途半端な途中無人駅まで乗車していた。したがって乗りつぶし目的である以上はその横倉以北、越後川口までの飯山線未乗区間をどうしても埋める作業が必要だった。乗り鉄はどうしてもそこに拘る。普通に列車の旅をしている人には理解しがたいかもしれないがやはり好きなものに対しての強烈なこだわりはある。よって、長岡から長野まで普通に乗車券を前もって購入していた。べつに指定をとるわけでないのだから、乗車前に当日購入すればいいのだが、あえて周遊券購入時に一緒に買っておいた。みどりの窓口の係員には迷惑なお客だろうが、まあこの手のマニア的な客にはとうてい慣れているだろうから・・・
7時20分過ぎの飯山線普通列車戸狩野沢温泉行きはたった1両のキハ23形という古いディーゼルカーでカラカラカラ・・・とエンジン音を響かせて早くも入線していた。この旅で写真撮影をしていなかったのが惜しまれる。こうした古い旧式のディーゼルカーは今や見ることができない。25年の歳月を過ぎた今、もし写真に残っていたらそれこそ感慨もひとしおだろう。でも当時は乗ることに一途であまり記念写真として残すことに興味がなかったのだろう。まあ、後悔してもしかたない。記憶という映像に残っていることをよしと納得しよう。長岡をゆっくりとしたスピードで発車したキハ23形普通列車は越後川口まで上越線を走り、飯山線に入る。
このあたりは全国でも名がしれている豪雪地域。2004年の新潟中越地震の被害を受けた小地谷地区である。数十分走って十日町に着く。このあたりは十日町盆地である。淡々とした雪景色の平野をとことこと走る。暫くすると信濃川に沿って走る。新潟県から長野県に入るところで信濃川から千曲川へと変わる。今度は左手の千曲川に沿って列車は走る。半年前下車した横倉に停車。これで飯山線乗りつぶしが果たされた。終着、戸狩野沢温泉着。戸狩温泉と野沢温泉、二つの温泉地を合わした駅名だ。このあたりは上信越国定公園で志賀高原、苗場も近く言わずとしれたスキーのメッカである。長岡から2時間30分ほどか。十日町で15分ほど行き違いの停車もあったと思うので意外と時間がかかった。クルマの方が断然早いだろうな。
乗り継いだ長野行き。キハ58、28のノーマルな2両編成のディーゼルカー。飯山色だった。しかし、今では飯山線もキハ110が走ってかなり久しいがこの時代は独特の塗色のこの地域ならではの汽車が走っており楽しみも大きかった。1時間20分ほどで長野へ。今では北陸新幹線が出来て飯山駅も新幹線停車駅となったが、当時は誰も遠い未来のことだと想像もしていなかっただろう。
改めて、四半世紀も大昔の旅を思い出して書いていると不思議な時代感覚になってくる。なんだかタイムマシーンにも乗って四半世紀昔の時代に戻ったようだ。
長野で昼食をとり、普通列車はで松本へ。まだこの時代の長野地区の普通列車、旧長野色だった。最近、しなの鉄道でこの時代の初期長野色が復活したようだが個人的にはこの初代の色、白地に濃紺のライン、下部に臙脂色のカラーの方が今の長野色より好きだった。
松本からは普通列車中津川行き。この時代はまだ国鉄型の湘南色急行型電車165系が活躍したいた。今や近郊型の2両編成の電車が18きっぷのシーズンで混む時期にも走っているが、この時代は急行型で3両編成、18きっぱーも着席チャンスが多かったので今よりいい時代だったと思う。この電車の車中では、すぐ後ろのボックスシートに同年代とおぼしき女子大生2人組が何やら意味のない会話に花を咲かせていたことを思い出す。話を聞いていると東京の有名私大の学生らしいが、中津川が愛知県だとか・・・聞いているこっちは地理に疎いなと思った。
中津川からは、おなじみのロングシートの快速電車で帰路へと着いたのだった。
そして、今回の3日間の周遊券旅も無事終わった。旅は帰る場所があるからいい。しばらく旅はおあずけにしようと思ってもまた旅に出たくなる、そして時刻表を開いてあれこれと旅程を組み立てる。それが孤独な学生時代、唯一の楽しみだった。もうすぐ3回生。秋には就活という現実が立ちはだかる。でも、僕は現実からひたすら逃避行をつづけたかった。だから、また旅に出たい。だからまたバイトをしてお金を得る。